映像としての生は死なのか

お久しぶりです。 ぷーです。 とある機会がありまして、6月にできた自社の子会社であるCGチェンジャーの社長のあしべさんこと芦田さんとお話することがありました。

CGなんて全くの興味もなかったのですが、お話しているうちに倫理的な話に大きく飛躍してしまったのですが、その内容が楽しかったのでこうして書いています。 


 タイトル通りの内容になのですが 

 <映像としての生は死なのか> 

 どう思いますか? 


 もう少し現実味を帯びたことをいうと、


 親族が死んでしまった。  

しかし、生前撮影データ、音声データを残しており、そのデータを元にCGとAIで映像として存在するとき、その人は死んでいると言えるのでしょうか。  

表情や声、会話はもちろん、口癖や、イントネーション、ついついやってしまう癖、喜怒哀楽。 

全てが生前となんら変わりないとき。


そんなとき、人は死んでいると言えるのでしょうか。

 

最愛の人が、親族が、親友がかえらない人になってしまったとき。  

どうしようもなく一目でいいから会いたいとき。

この映像内の人物は一体誰なのでしょうか。


おそらく今生きている我々の感覚からすると違和感でしかないのが普通でしょう。

しかし、3年後、5年後、10年後、この技術が存在する世界に生まれてきた子供にとって、映像内の祖父母は祖父母以外の何者でもないのではないでしょうか。

 

「パパ、なんでじいじには会えないの?」

「じいじは死んじゃってるから会えないよ」

「なんで?ここにいるじゃん。お話できるし、本も読んでくれるし、一緒に遊んでくれるもん。なんで会えないの?」


あなたは子供になんと言いますか?


こういう世界が来たとき、人の死の認識は変わるのでは?

よく言われます。

人は2度死ぬと。

1度目は我々のよく知る死の状態。

2度目はその人が生きていたということを知る人がいなくなったとき。


後者の死なんて訪れるのでしょうか

映像内に何世代も前の家族がいて、そこでも団欒は存在する。 

そんなとき改めて死を考え直す必要が出てくるのでしょう。


こんな世界が案外近かったりするのでは という話で2時間くらいお話しましたとさ。

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